カヌースラロームにかける思い 矢澤一輝選手インタビュー

8月5日、羽田空港第一ターミナルにあるSTAMPS Caféにてカヌースラロームの日本代表選手である矢澤一輝選手にお話を伺った。
矢澤選手は、19歳で北京オリンピック(2008年8月)、23歳でロンドンオリンピック(2012年8月)に出場経験がある。
ロンドンオリンピックでは、カヌースラローム男子カヤックシングルで、日本勢として初めて決勝戦に進出し、日本人初の1ケタ台(9位)になったことでも知られた存在である。

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「こんにちはー!」

約束のSTAMPS Caféに少し早目に到着して待っていると、10分ほど遅れて矢澤選手がはつらつとした声とともに姿を見せた。

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「すみません、車に舟を乗せるのに手こずってしまい、遅れてしまいました」

青々と剃り上げた頭をかきながら、人懐っこい笑顔を向ける。オリンピック出場経験を持つ日本代表選手と聞いていたのでいったいどんな人物かとドキドキしていたが、こうしてみると元気のいい26歳の快活な青年だ。
しかしその厚い胸板は、やはりアスリートとしての素性を暴露する。
つい先日はロンドンへ出向き、強化合宿を行ってきたばかりとのこと。

矢澤選手といえばご存じの方もおられるかもしれないが、実はもう一つの顔がある。
長野県にある善光寺のお坊さんでもあるわけだ。

ロンドンオリンピックで輝かしい成績を残された2012年の12月、突如メディアに対し善光寺に出家したことを発表した。
大学4年の時、卒業後のスポンサー探しで相談していた県カヌー協会長で善光寺天台宗一山の寿量(じゅりょう)院の小山健英(けんえい)住職から、「社会人として世界を目指すなら、どの五輪まで続けるのか区切りを決めた方がいい」 と助言されたためでもあったそうだ。

なお、仏僧としての授かった僧名が「矢澤きょう(舟偏に共)栄」と言われる。小山住職の温かい眼差しが感じとれる。

■1日のタイムスケジュール

ところで僧侶としての日常と日本を代表するスラローム選手の活動を、いったいどのように両立されているのだろうか?

「善光寺のお勤めは、午前5時半から始まり、午後3時頃に終わります。その後に車で20分ほどのところにある川辺に移動して、後はひたすらスラロームの練習ですね」

理知的で歯切れの良い物言いに、とても26歳とは思えない大人びた人間性を感じる。
屋外での練習量は日照条件と外気温に左右されるため、この時期の夏場は2時間ほどプレイできるものの、冬場の長野の川水は恐ろしく冷たく、練習時間も1時間から1時間半ほどになるらしい。

「いろんな取材でみなさん一様に聞かれるんですよ、善光寺とカヌーの両立について」

どうやらこの手の質問は、これまで山ほど受けてきたらしい。

「でもね、自分にとってはまったく別々のものだから、たとえば精神的な結びつきとか無理やり絡めようとする記者の方もたまにいらっしゃるのですが、自分にとってはそれぞれが別の生き方としてあります」

僧侶であり、なおかつアスリートという異色の組合せに我々は興味を奪われるが、当のご本人にとっては自然な選択肢であり、人生設計という風呂敷の中で独立して並べた駒のようである。

■パワースポットに関する小話

ここでちょっとだけ怖い話を。

これは筆者の知り合いの話だが、八ヶ岳山系の代表格である赤岳に登った時に同じ登山仲間から聞いたところによると、どういうわけだか山開きして間もない頃には、不思議と母子の登山客の姿を頂きや山合いに目撃したという情報を稀に耳にするという。

それも考えられないくらいの軽装で随分な標高に突然姿を現すわけだから、目撃した人は一瞬何のことか分からないらしい。中にはその母子とすれ違ったという人もいるらしく、言いようのない雰囲気でとても声をかけられる気にはなれなかったとか。

そんなこんなで少し油断すると霧の影に二人の姿が見えなくなり、あれはいったい何だったのかとキツネにつままれた思いをするという。

 

やや横道に逸れてしまったが、こうした日本の山々の中には、不思議な逸話を残すところも珍しくなく、またその一方でいわゆる霊山と伝えられている山も日本全国に存在する。

古くからの言い伝えで神がかり的な神話を残す地方も往々にしてあることに思い当たり、ふとこの際思い切って矢澤選手に、カヌー競技を行う山合いにあって、いわゆるゲン担ぎというか、パワースポットと感じる場所はあるのだろうかと伺ってみた。

思いのほか即答があった。それは一にも二にも奥多摩にある御岳山(みたけさん)だとのこと。

数々の有名選手がここで鍛錬を重ねており、ご本人も学生の頃一時期この地にこもって練習に明け暮れ、また今でもたまに車を出しては奥多摩で川を滑るらしい。

単に有名選手を輩出してきた環境ということだけでなく、そこでひとり川や山と対峙することでぐっと心に響くものがあるのだとか。

森閑とした林の中を杉苔の柔らかな弾性を足の裏で感じながら突き進むと、やがて視界は開け、川の急流が差し迫った渓谷に出くわす。

皮膚で感じる目に見えないなにものかが精神にも肉体にも刺激を与え、矢澤選手はアスリートとしての源流に思いを巡らすこともあるという。

■少年の日の思い出、父親の存在

矢澤選手は長野県の天竜川の上流で、小学生の頃からお父上よりカヌーの特訓を受け続けた。
当時は自分の体よりも大きい波もあって体の芯から怖さも感じたが、お父上の指導の元、急な流れの中で沈した際のリカバリや水の流れを読むコツなど、波さばきの技術を体の隅々に刻んできた。

スラロームの選手にはそもそも癖あるいは特質といった傾向が見られる。
矢澤選手は先の天竜川での猛特訓がベースとなり、大きな波の中でどのようにボートを効率よく進めるか、その技術と一瞬の判断力に自信があるという。

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スラロームやスプリントといったカヌー競技は、先の奥多摩を始め、秋田や富山や青森、福島や岐阜、山口といった全国のさまざまな渓流で練習場や試合会場として利用されている。

現在の矢澤選手の主な練習ポイントは、長野県の犀川や小田切ダム湖であるという。
しかし残念ながら犀川は水が多すぎるため危険が伴う。

「長野県では思うような練習場所が見つからないのが残念ですね」

そう言って彼はすこしだけ肩をすくめた。

たとえば富山県の井田川カヌー競技場は、自然の河川に岩を配置した半人工のコースであり、日本で一番ハードなコースと言われている。ここでは、カヌースラロームジャパンカップや、NHK杯が開催される。

2020年に控えている東京オリンピックでも、恵まれたカヌーの競技場を用意してほしいという思いはどの選手にも同じことだろう。

しかし矢澤選手が語るには、葛西臨海公園に造るにせよ東京湾に設けるにせよ、現在の自然環境との共存の他にも、ロンドンオリンピックの事例でも見られるように、オリンピック閉幕後もラフティング用に一般開放していくなど、その後の計画的な利用も見据えた会場整備を期待したいとのことだった。

■スラロームカヤックについて

ここでスラロームカヤックについていくらか筆をとりたい。
その前にまずは、カヌーの説明から。

カヌーは、レガッタのようなボート競技と違い、進行方向を向いた姿勢で漕ぎ、パドル(櫂)は固定されていないために自由に舟艇を操ることができる。

カヌー競技には、静水面で行う「スプリント」、河川などの急流で行う「スラローム」「ワイルドウォーター」などの種目がある。その中でも、一人乗りの「カヤック」と一人または二人で漕ぐ「カナディアンカヌー」とに種目が分かれる。

カヤックは、舟の上で着座し、オールの両端にブレード(水面を掻く部分)がついているダブルブレードパドルを使用する。
それに対してカナディアンカヌーは、舟の上で膝をついた正座の形で乗り、オールの片方にしかブレードがついていないシングルブレードパドルを使用する。

スラロームは、急流の中に設置されたゲートを通過しながら、決められた区間のタイムを競う競技だ。
川の流れ方は、人が立っていられないほどの激流というから、意外や意外、上半身の腕力もそうだが何よりも強靭な下半身が勝敗を決めるらしい。

■スラロームで大切なこと

スラロームは90秒ほどの短い競技である。
2本のポールで挟まれたゲートをくぐりぬけ、船体をわざと傾けたり半分沈めたりして回転性能や運動性能を上げ、急流や荒瀬を横断しながらゲートを通過するという難易度の高い技を繰り広げながら、タイムを競い合うスポーツだ。

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そういった頭脳的でもありながら肉弾戦とも言えるせめぎ合いの中で、勝利を手にするためには少なくともスタートする前にコースを下見し、全体の地形や水の流れ、ゲートの位置を頭に入れることが欠かせないという。

しかしながらいざスタートすると漕いでいる最中は無我夢中なので、漕手の視線はいつも目の前の波に向けられている。

「最初にいける!と思ったらですね、その試合はダメなんですよ」

大きな瞳をまっすぐに向けながら、矢澤選手が話を続ける。
これはどういったことだろうか?

「勝ちを予感した瞬間に心の中に隙が生じるようなんですね。だから仮に、漕いでいるさなかに会場のアナウンスが耳に入ったりもすれば、自分はその試合はアウトだなと腹をくくってます」

90秒の闘いは極度の神経戦でもあるようだ。

とりわけ風が吹くと舟がいとも簡単に予定外の位置に流されたりするため、同じ試合会場とはいえ、個々の選手が置かれた状況に、二つとして同じものはない。
水の流れや風の向き、強弱で同じ状況は再現しえないのだ。
都度置かれた状況を一瞬で判断し、的確にパドルをさばいていかなければならないというところも、この競技の難易度を高めている要因の1つに数え上げられるだろう。

「世界レベルとなるといわゆるメダリストとの差はなんなのでしょうか」

「そうですね、たとえばゲートカットで難を要するポイントで、より効率的にモードのコントロールを行えるといった技術的なものもそうですが、試合運びを全体的に見通す見識眼だとか、経験からくる自信、知識といった総合的な勝負力に厚みを感じますね」

■リオデジャネイロ オリンピックまでの道のり

カヌーの強豪国と言えば、言わずと知れたヨーロッパ勢が挙げられる。
矢澤選手のレベルになると、彼らとぶち当たる機会は、オリンピックの他に世界選手権が挙げられる。

「オリンピックよりも世界選手権で勝ち残ることの方が実は大変でして」

意外な声が漏れた。
これは大会設計に拠るところが大きい。

というのも、オリンピックは世界選手権を勝ち上がってきた15ヶ国からの参加となるため、選手数が相対的に少ない。
それに比べて世界選手権はぐっと参加国が増えるため、その分強豪となる選手人口も増え、その中でいかに国別のベスト15位に食い込むかが勝負となる。

今年9月に開かれる世界選手権で見事ベスト15位に残れるか、たとえ日本代表選手に選ばれた矢澤選手とは言え、来年の8月にリオデジャネイロで開かれるオリンピックへの出場権獲得までにはもうひとつ大きな関門を潜り抜けなければならない。

■日本のカヌー界を背負う矢澤兄妹

矢澤一輝選手は2歳年下の亜季選手とふたりして昨年9月に熊本県人吉市で開かれた長崎がんばらんば国体で兄妹優勝を果たすなど、カヌー界きっての兄妹選手として周囲の耳目を集める存在である。

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小学生の頃からお父上から指導を受け、スラロームの特訓を重ねてきた両兄妹。
亜季選手は2015年2月より昭和飛行機工場株式会社に所属され、一輝選手同様今後の活躍が多いに期待できる。

ぜひ日本においてスラローム競技を大いに盛り上げていってほしくもあり、またそのポテンシャルを十分に感じさせる選手たちであると感じた。

■自然体であるということ

この日筆者は初めて矢澤選手とご対面したわけだが、冒頭から絶えず人懐っこい笑顔を向け、大きな瞳でじっと相手を見据えるところが印象的な好青年であった。

普段の日常生活に対しては、過度な締め付けをせず、体が求めることに対して素直に従うところを信条としているようだ。

食事もバランスよく摂る。
逆にプロテインといった化学物質は一切口を付けないとのこと。
また体調がよくなるということで、野菜を意識的に多く食べるようにしている。
肉が好きだけれども、その前に必ず野菜を摂る。食事に関して気を遣うところはそのくらいらしい。
この辺りは少々健康に気を使っている一般市民のそれと変わらない印象を受けた。

日本代表選手ということもあって取材前はどうも身構えてしまったけれども、実際に会うととても気さくに話して下さり、自然なスタイルでカヌーに向き合っている方なんだなと感じた。

それは道具選びにも表れている。
矢澤選手は、ボートにせよパドルにせよ、流行りを追うことはしない。
いつも使い慣れたものを愛用し、自分が良いと納得したものを長く愛用している。
そのため、実はあのロンドンオリンピックの時に使っていたものも、周囲の選手のそれと比較すると随分古いものだったのだそうで、そのために周りの選手からもある種の好奇な視線を集めたとか。

矢澤選手は言う。
道具たちは常に自分と共に練習を重ねてきた仲間であり、心の支えであると。
自分が本当に良いと思う自負の表れであって、慣れているからこそ安心して使えるパートナーである。
基本的な性能のみを求める、矢澤選手のカラリとした性格がよくわかるエピソードだった。

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周囲に流されることなくしっかり自分の意思でもって、道を切り開いていく。
プレイにしても僧侶の道にしても、その選択肢は自発的な判断に拠るところが大きい。

日本のカヌー界から期待された青年は、その重圧を感じさせることもなく、朗らかな笑顔とともに片手を挙げながら、さっそうとした足取りでSTAMPS Caféを後にするのであった。