「ミツバチ」パタヤGTレース観戦記

僕は全く車に興味が無い。
運転することは嫌いでは無いけれどもっともっとスピードを出したいと思ったことは人生で一度もない。
車に乗って同じところをぐるぐる周り、タイムを計るために莫大な金と労力を注ぎこむことに何の意味、どんな価値があるのか解らない。

世界中にいるであろうモータースポーツファンの存在は世界七不思議のヒトツに数えられる。
レース場に足を運んだことは、当然、一度もない。いや、一度も無かった。

その日本人ドライバーの話を聞いたのは、偶然。
誰かと会話をして仕入れた情報ですらなく、タイの南の島を訪れたときに、
クラビの空港から島へ向かうミニバンの中で隣り合わせた老夫婦がパタヤの話をしていた。
公道を封鎖して行われる車のレースが、世界のどこにもないようなロケーションで、
世界で唯一のビーチ沿いのレースであること、レース後、タイ人だと思って話しかけたドライバーが日本人でびっくりしたこと、
日本人なら日本でレースに出場した方がお金は稼げるのではないかというようなこと、、、
車に興味はなくとも、海外に住む日本人には関心があるので、何となく調べてみると、
タイ国内のレースにフルタイムで参戦している日本人は一人しかいなかった。

その日本人ドライバーを特定することは容易く、すぐに連絡を入れる。
日本人のライターであることを告げ、次のレースの取材を申し込むと、ゲストパスの取得を快く引き受けてくれた。

次のレースは7月。10月にあと2回ある。
公道を封鎖して行われるのは10月の2回目だけで後はレース場内で開催される。

7月のクソ暑い週末にレースは開催された。
生まれて初めて来るレース場内はさほどパッとしなかった。到着した時間が早かったので、観客も300人程度。
これから時間が経つにつれ増えていくのだろう。「あっつちーなー」というのがレースにたいしての正直な第一印象。
派手な衣装を着たスレンダーなオネーチャンが仮設テントのような場所でDJをする様が寒々しく、
彼女のかけるハウスは殆ど犯罪と呼べる代物で、やたらと耳障りで、さっさと取材を終えて帰るべきだという啓示として受け止めた。

最悪の気分でゲストパスを受け取り、事前に説明を受けた。
日本人ドライバーアサイさんの所属するチームのパドックにむかうと、6、7台のゴツいスーパーカーが整然と列び、
所々にモータースポーツの花形、キャバクラお嬢様のようなレースクイーン達がたむろしている。
彼女達のイヤラシイコスチュームを所在なく眺めていると「こんにちは」という聞き覚えのある声と共にTシャツ短パン姿のアサイさんが現れる。
レース前でピリピリしているかと思いきや、とてもリラックスした表情で。 今日はすべて期待通りには進まないと思わせられる。

レースは2日間開催される。僕が見に行ったのは2日目のレースだったので挨拶もそこそこ、昨日はどんな塩梅だったのか尋ねてみると、

「DQでした」
「なんすか、DQって?」
「デイス クオリファイ(DISS QUORIFAI)。まあ、要は失格です。」
「何かおきたんすか? 事故とか、、、」
「いやーそうじゃなくて、車の重量が足りてなかったんです」
「車の? なんすか、重量?」
「どんなレースにも規定の車体の重量というのがあって、レース直後に車体重量を計量するというのが決まりなんです。
それにひっかかってしまい失格となってしまいました。レース前にチームのメカニックと量ったときには大丈夫だったんですが、、、 」

アサイさんの乗るスーパーカーがタイ国内に搬入されたのは、なんとレース2日前の深夜。
前日に行われる予選のタイムラップに何とか間に合ったと思いきや、エンジンの不都合が発見されて予選日に車はバラバラ。
予選不参加。これで本線は最後尾スタート決定。
いわくつきの黄色いフェラーリに乗り込み、ぶっつけ本番、最後尾スタートでしたと爽やかに笑うアサイさんに得体の知れない強さを感じた。

怒って怒鳴ったところで、物事は少しも良い方向に向かいませんからと言って、彼は一言もメカニックにたいして文句を言わなかったらしい。
前日の物語を車の周りでしていると、そろそろ時間ですのでと言って、アサイさんは更衣室の方に消えていった。
防火用のシャツを着て、黒いツナギを身に纏ったアサイさんが車に乗り込もうとするその時、やにわに、メカニック達がドタバタとし始める。
2人が車の下に潜り、もう2人が内部を点検しはじめる。
フェラーリの前部をジャッキで持ち上げ必死になって何かをしようとしている。
レース開始まで10分を切っている。続々とライバル達がスターティングポジションにつく中、アサイさんはまだ車の運転席にすら座れていない。

「何してるんですか?」
「どうやら、水が漏れてるみたいです」
「、、、、、、、」

レース開始1分前に爆音と共にパドックを出たアサイさんが向かうのはスターティングポジションではなく、コース脇の側道のようなところ。
規定の時間に定位置につけなかった車は全ての車が出発した後に、この側道から出発しなくてはいけない。

一体いくつのトラブルをこの人は背負ってこのレースにでているんだ。
気のせいなのか、アサイさんの黄色いフェラーリから五感をビンビン刺激するほどの緊張感が漂い始め、鼓動を速くする。
車達のノイズが最高潮に達した時、スターティングフラッグが振られる。

全車一斉にスタートする中、黄色いフェラーリだけが側道でブンブンと唸りをあげ足に紐を結ばれたミツバチのように、その場に佇み羽音ならぬ排気音を撒き散らしている。
最後尾の車がフェラーリの前を通過すると同時に、今まで足に結ばれていた糸をぱちんと鋏で切ったように、ミツバチが轟音と共に踊りでる。

鬼気迫る走り。

機械とオイルの塊にドライバーという魂をぶち込んだとき、人と機械とオイルは混ざり合って一体化する。
黄色いフェラーリは鉄のミツバチとなって、様々な色の虫達を、爆音と共に抜き去っていく。
車がぐるぐると同じところを回ってるのを見て、興奮している自分に驚き入る。
少し、鳥肌が立つ。

最後尾からスタートしたミツバチは現在2位。後4周でゴール。
昨日の失格から一夜あけ、今日は表彰台だと確信する。
もう1台抜いてくれるかも知れないという期待付きで。
ゴールにくる瞬間が見たくて、それまで観戦していたヘアピンカーブから、ホーム前のバックストレッチへ。
チェッカーフラッグの後方で今か今かとミツバチの現れるのを待つが、、、
チェッカーフラッグが振られる。
様々な色の虫たちがぞろぞろと自分達の巣へ帰っていく中、自力では飛べなくなったミツバチが、仲間に助けられて戻ってくる。
勿論、ドライバーは乗っていない。
ダッシュでパドックまで戻ると、既にアサイさんがいる。

「何かあったんですか?大丈夫ですか?」
「いやー、最後2周のときカーブでいきなりブレーキが死んでしまって、どうすることも出来なくなってしまいました、、、」
「ブレーキの突然死、、、」
「はい」
「怪我は」
「大丈夫です。でも、死ぬかと思いました」

淡々と話すアサイさんの言葉は重い。
高速で車を運転していて、ブレーキが突然効かなくなる状況なんて想像もしたくない。

「メカニック達は何と?」
「ブレーキ、走行中に落っこちちゃったみたいですね。ぽろっと」

最後の最後までトラブル。
それでも、絶対に怒りをメカニック達にぶつけない。
例えブレーキが落ちて無くなって、死にかけても。

「そろそろ着替えてきます」
「もう一つだけ聞かせてください。何でトラブル続きのなかタイのレースに出場し、何のために走ってるんですか?」
「、、、そうですね、後2戦あるので、どうしてなのか自分の目で見て確かめたらどうですか?」
「答えは教えてくれない?」
「そうですね、フフフ」

車が走る姿を見て興奮するという体験が新鮮で感動すら覚えた。

彼は何のために、どうしてここで走っているのだろう?
その答えを自力で見つけるために、僕はまたレースに戻って来よう。

アサイさんの物語は10月へと続く。